「音」に対する細胞応答の解明
生物の五感の中で最も根源的な感覚は触覚であり、その次に化学的感覚である味覚・嗅覚、最後に聴覚・視覚が進化の過程で獲得されていたと言われている。⾳波は粗密圧⼒振動が媒質中を伝わる物理現象で、⾮接触でありながら多くの情報を⼀瞬で伝達することが可能で、動物個体にとっては重要な環境情報である。人間が音を捉える仕組みは複数の組織が連動する精巧かつ複雑な生命現象だ。空気の振動として耳に到達した音は、外耳で集められ鼓膜を振動させる。この振動は、耳小骨を通じて増幅され内耳へと送られる。振動が蝸牛に伝わると、内部にある 有毛細胞がその振動を感知し電気信号に変換され聴神経を通じて脳へ送られる。近年のメカノバイオロジー(接触刺激や圧⼒や基質弾性⼒などの物理刺激に対する細胞応答の研究分野)や体導⾳(外部由来の⾳や接触振動に加えて⼼⾳や声⾳などさまざまな⾳波が伝播し形成される)の知⾒から、⽣体内における⾳波圧⼒は細胞応答を引き起こすのに⼗分なレベルであることが予想されてきたが、特殊な聴覚細胞以外の種々の細胞に対する、音の直接的作用についての科学的追求は進んでいなかった。
京都⼤学⼤学院⽣命科学研究科の粂⽥昌宏助教、吉村成弘准教授らの研究グループは、可聴域の⾳波刺激(ヒトが聴覚系で受容できる約20~20,000ヘルツの周波数帯の⾳波)に対する細胞応答に着⽬して研究を進めた。まず、培養細胞に効果的に⾳波を伝播するため、培地に振動板を浸けて直接⾳波を発⽣する実験系を構築した。これを⽤いて、マウス由来筋芽細胞C2C12に対し、440Hz・14kHz・ホワイトノイズ(⼀様の周波数構成をもつ⽩⾊雑⾳)の三種類の⾳波を100Pa の強度で照射し、2時間と24時間後の遺伝⼦応答をRNAシークエンシングにより解析したところ、2時間で42種類、24時間で145種類の遺伝⼦が有意にその活性を変化させたことが分かった。この中には細胞運動や細胞接着に関与する遺伝⼦が多く含まれていたことから、細胞接着に注⽬して研究を進めたところ、実際に⾳波刺激は細胞接着を活性化し、細胞接着キナーゼのシグナル伝達系を通して初期遺伝⼦応答を起こすことが判明した。そして、この初期遺伝子応答によって更なる遺伝⼦応答へとつながる機構が明らかになった。いろいろな細胞種を⽐較すると、脂肪細胞・筋芽細胞・⾻芽細胞などが特に顕著な⾳波応答性を⽰し、中でも脂肪細胞の分化は継続的・断続的な⾳波刺激により有意に抑制された。これらのことから、可聴域⾳波が細胞レベルにおいて遺伝⼦・代謝・形態制御・細胞分化に与える影響が明らかになった。
これらの成果は、細胞が可聴域⾳波に応答することをそのメカニズムとともに証明したものであり、⽣命に対する可聴域⾳波の⽣理的意義を問い直し、⽣命と⾳の根源的関係を解き明かすことにつながるものと考えられる。また、⾳波を刺激源として⽤いた細胞操作や組織制御という新たなバイオテクノロジーの可能性を拓くものであり、将来の研究展開が期待される。本研究成果は、2025年4⽉16⽇に国際学術誌「Communications Biology」にオンライン掲載された。